三沢東部中学校43年卒


在校時から残っていた唯一施設の体育館が使用禁止になってしまいました。
耐震強度が不足するとのことですが、残念ですね。
特に冬はグラウンドが雪で使えないので、体育館が遊び場であり、運動場なので、子供たちが可愛いそうです。
一日も早く、新施設ができるといいですが、ご多分に漏れず、予算が足りないということです。
何とかしたいですね。

体育館の思い出


リポート 体育館が消える! (現存施設またなくなる)

(小学校正門からの現体育館)

 近年の四川内陸・中越・宮城岩手内陸等々、頻発地震に於ける国の対策に準じて山形県及び米沢市では、公共施設での被災者(特に学校構造物)想定を重要と位置付け、平成20年より市内の小・中学校の校舎や周辺施設の耐震強度診断を実施する事となり、第一号校として私達母校、三沢東部小学校が夏から秋にかけて行われました。

 診断結果が平成20年11月に米沢市より地元保護者に報告され、本校舎一部外壁補強要また体育館に於いては、築後47年(昭和36年3月落成)経過し、震度6.5強または積雪量60p以上で崩壊の恐れ有りとの事でした。あくまで数値上の結果ですが、危険回避との事で児童は平成20年11月末日、地元住人利用は同年12月23日を以って使用満了を終えました。最終日、学校協力の下地区対抗による球技大会にてその歴史を惜しみました。

 今後、取り壊し(解体・平地)となる方向ですが、先は未定で新築される計画はないと市側は言い切っております。平成21年以降、他の小・中学校への診断が成されれば危険構造物が増えるかも知れず、地元は建て替か・他校利用か・統合かと困惑の渦中に置かれている状況であります。

2008年12月23日現在

写真と記憶のみとなる今

体育館の歴史を改めて視る

手洗い・水飲み場

  大正十一年の合併と共に建築された旧体操場も老朽化し、危険防止のため、周囲に支柱をかって維持する程になった。いわゆる「つっかい棒学校 」である。また、児童数減少の傾向とは言え、三九〇名の児童が新教育のもとで健康増進、体育技術の向上を計るには、その広さ(六十五坪)設備、採光等、あらゆる面から不備であった。このような現状を訴え、市当局の深いご理解のもとに、昭和三十六、三十七年の二年次計画による新体育館実現の運びとなった。

5・6年生時使用した昇降口

(小学校六十周年誌 昭和57年11月発行 渓郷樹学 記念誌より)

◎ 第一年次(昭和三十六年度)

・屋内体育館   六六、四八坪  請負者 置賜建設(株)

・昇降口及渡廊下 二三、九四坪  電気工事 東北電気工事

・児童便所    一三、七二坪  給水工事 新藤設備工業所

計一〇四、一四坪 総工費四、七九二、〇〇〇円

昭和35年10月20日 体育館建設地鎮祭

昭和35年12月12日 上棟式

昭和36年 3月21日 落成

昭和36年 5月31日 竣工引渡し式

◎ 第二年次(昭和三十七年度)

・ 八十四坪 南側へ続けて拡張

(5,6年生時使用した昇降口)

・ 1月23日 落成引渡し式

渓郷樹学 とは

水、 清く 空気澄み、自然豊かな

三沢の郷に 学を拓きし先人の

教へ引継ぎ 学問を樹立する

の意(十五代校長 情野悦良氏の言葉

(バスケット競具は当時のままで市民総体練習に汗を今も流す)


(現児童から60歳代までソフトバレー地区対抗に最後の汗を一日流した)

                                     

(経年内部は塗装や床の張替え等補修に仕事人として卒業生が携わっていた)


小学校2年生のころ、屋根鉄骨のトラスをリベットで組み立てていました、真っ赤に焼けたリベットを下から、屋根のところまで投げて、上でバケットで受けていました。
あの風景を今でも思い出します。