□ 体育館新築に向けて 〜近況レポート〜
絡通路および技術員作業場(旧三東中音楽室)等が解体撤去され、いよいよその動きが加速化されてきました。
市九月議会には本事業の件は議場提案用件は上がらず、翌十月の臨時議会によってようやく議会承認に至り、同月現地にて地鎮祭から写真の様に進行して参りました。
学校西側県道は歩道も完備、生徒・一般の新たな玄関口(昇降口)となるようでこの位置から工事開始され、県道〜校舎間はかつて田んぼであったため地盤改良を施し本体基礎工事へと西から東方向に進めるものと見られる。
私達も記憶に留める旧生徒昇降口や旧音楽室と言った過去と今を繋ぐ象徴的な現存物を失い、いよいよ記憶と記録の域となりました。
写真の位置(白く見えてる工事防護壁)に皆さんの近くで見られる小・中・高校の天井の高い今風の四角い体育館を想像して下さい。
正面に映える銀杏の古木は健在ですが11月中旬のある小春日銀杏のみ今も変わらず(小学校提供)ポプラの様な上に伸び両脇を締めた当時の姿とは少々違う様に思います。
が、いま在るこそが頼もしい。
かつてこの左に職員・来賓玄関口その先には木造二階建て校舎が存在していた姿を想像していただきたい。だいたいの位置関係が頭に浮かんで来るでしょう。
銀杏の木、幹も太く枝張りも左右に大きくなって今、改めていつ頃植えたんだろうと想い付いた。 気になる事は早々に調べて見た。が、意外に資料が手元にない。創立記念誌を2時間かけてじっくり読んだところ、第十五代校長(昭和37年)湯井四郎氏、私達小四年生の時の校長先生か!の文中にそれらしき話が書かれてあった。
大正年間後期(大正十一年)斧川小学校(現小野川)簗沢小学校の二校が存在し、この年文部省は小学校教育費の整理・節約の訓令を発し、当地区も経費節約、教育内容一層充実等の目的上二校統合大台原新校設立となって現在の地に在る事となる。
その新校舎建設の記念樹として植えられたと述べられてある。その後植え替え等の裏は取れていないので追々載せて行きたい。
![]() |
田んぼアート |
|
![]() |
---|
前田慶次郎 |
![]() |
11月中旬のある小春日銀杏のみ今も変わらず(小学校提供) ![]() 解体直前音楽室 壁に音楽家の肖像画 ![]() |
□ 田んぼアート今年は前田慶次
この前田慶次って誰?と思う方々もあろうが上杉家・直江兼続とは家臣・親友の間柄。慶長五年(1600年)有名な東西戦関ヶ原のちょっと前、関ヶ原が九月十五日、話は九月初旬か?)山形最上義光との一戦≪長谷堂の合戦≫では慶次は殿を努め見事な撤退を成したのは有名な話です。
(つまり西軍が負けたのを知り、城に退却)。
当米沢にて生涯を終えたとする説を唯一とする米沢前田慶次の会では万世町内にその墓所として幟を立て史跡たる証しを市内外に示している。
とは言え領主・城主ではないのでその肖像は誰も見た事がない訳で1990年に集英社から発刊されたジャンプコミック花の慶次〜雲のかなたに〜の主人公がモデルとなっている。
関ヶ原の合戦以降「前田慶次道中日記」京より米沢の道中日記を綴ったものや隆慶一郎原作の小説(新聞の連載小説だったらしい≪一夢庵風流記≫を麻生末央脚本・漫画原哲夫の〜花の慶次〜が人気漫画となって慶次像を作ったらしいが歴史上の諸資料が殆どない。
あえて加賀藩前田家との係りをも書き残さずと言った帰来も有り!と云う歴史学者の書物さえあり謎の多き人物であろう・・・。この件に興味のある方々は各々に調査・研究されんことを希望します。